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リビアに向かったインド海軍のジャラシュワ

◆3月2日

 リビアのカダフィ政権がすんなりと降参しないで、武力弾圧を強めているため、リビアの石油が心配な欧米諸国は、国際世論を煽る事で、軍事介入を正当化させようとしている。

 カダフィ政権が民主的政権でないことは、昔から分かっていた事だが、それでも国際的には主権を持っている国家のはずだ。その国内で、反対勢力が弾圧に遭っているということだけで、外国勢力が軍事力を使って、その国に入ることが許されるのか、という問題がある。

 ルワンダ・ブルンジで大変な殺戮があったりしても、石油や希少金属が出なければ放って置くくせに、石油の利権が絡んでくるとなると目の色変えてすぐさま軍を送ってその利権の確保に狂奔する様は浅ましいものである。

 もしも欧米やインドが軍を送れるのならば、中露やパキスタンが軍を送ってもいいはずだが、そうなると、リビアの石油をめぐっての国際的争奪戦の様相を呈するようになるだろう。

 従って、一国の国内問題に外国が介入、しかも軍事的な介入をすることは極力避けねばならないのだ。それが簡単に許されれば、収拾のつかない事態が招来される可能性があるからだ。

 「防衛顧問団」というから、カダフィ政権の防衛かと思いきや、反乱勢力を支援するというから、これではテロリストを支援する欧米、ということになるのだが・・・そういう論理は彼ら、それに国際的メディアに洗脳された大衆には分からない。

 今、アフガン政府を追い詰めている反乱勢力であるタリバン勢力は、どうなのか、と聞きたくなる。今、カルザイ政権が掌握しているのは、アフガン全体から見て何割であろうか? アフガンの反乱勢力(=タリバン)には「防衛顧問団」は送らないのか?

 これを見ても分かるように利権が全てであり、欧米がどんな奇麗ごとをまくし立てても、偽善者であることに変わりはない。これから、この欧米社会の足元で同じような反乱勢力が出てきた時に、欧米の政権がどんな態度を取るものなのか、見ものであろう。

 そしてそのような日は、そんなに遠い将来のことではない。


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●米英仏がリビアに数百人の軍事顧問団派遣
http://pakobserver.net/detailnews.asp?id=78009
【3月2日 Akhtar Jahmal – Pakistan Observer】

 アメリカ、イギリス、フランスは反カダフィ勢力を支援し訓練を施すために数百人に上る「防衛顧問団」を反乱武装勢力が占領した石油の豊富な東リビアに派遣した。

 この地域のリビア外交官によって確認された特別なレポートによれば、この地域で親カダフィ勢力に対する抵抗を続けている反乱勢力を強化するため、「欧米の三カ国は特殊部隊をシリナシアに上陸させ、基地と訓練センターを造成しつつある」

 匿名希望のリビア高官は、アメリカ、イギリスの軍事顧問らは、2月23日から24日の夜に掛けて、アメリカ、フランスの軍艦と小艦艇で、リビアのベンガジとトブルク港に到着したという。

 欧米のこの勢力は、石油の豊富なこの地帯を効果的に統治し、トリポリの親カダフィ勢力による進行に反撃できるようにするために、リビアの反乱勢力でできている民兵のための訓練基地を造成する準備をしている。

 その他の報告では、カダフィの支配を完全に根絶できずとも、すくなくとも制限するためにリビア空軍を「骨抜き」にする試みがなされているという。

 一方、インドの3隻の軍艦がリビアの反乱軍が支配する地域に展開するために派遣されたという。

 いくつかの情報筋では、インド海軍は既に2隻の軍艦と最大の水陸両用艦船であるINS Jalashwaが派遣されたという。専門家によれば、ジャラシュワは、元アメリカ海軍のトレントンで、インド海軍の艦船では最大の艦船で、4年前にアメリカから引き渡された。ジャラシュワは、水陸両用部隊のさまざまな装備を積載し運搬し陸揚げすることができる。また、機械化揚陸艇、シーキング・ヘリコプター、艦対空ミサイル、速射砲などを装備している。

 専門家らは、ジャラシュワは揚陸用ドックを持ち1000人の完全装備の兵を乗船させられるとしている。この軍艦は沿岸警備、特殊作戦、偵察および救助、その他の軍務にも使用される。

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反イスラエルでまとまりつつある中東

◆3月1日

 「完全な断絶」、という言い回しは、英語では「A clean break」である。これは実はある戦略的提言としてなされた文章のタイトルとしてつけられた言い回しである。この提言書はアメリカのネオコンのグルームがイスラエルに向けて作成した「完全な断絶:イスラエルの領土保全のための新戦略」というものだ。
 
 完全な断絶とは、過去の和平への努力のやり方から「完全に断絶」し、力による「平和」を達成する、という意味である。今のネタニヤフが1996年に政権を握った時のイスラエルの戦略として提言された。

 今再びネタニヤフがイスラエルの政権を担っているが、この論文では、イスラエルが同盟を強化すべしとしたトルコやエジプトとの間に、今や「完全なる断絶」が生じてきている、と皮肉を込めて論じている。時代は変わりつつある、ということだ。

 このブログでは既に、2月23日号の「イラン軍艦:スエズ運河通過」で示したのを中心に何回も、今回のアラブの民主化革命がイスラエルに不利になる点を指摘してきたが、それはトルコばかりか、エジプトというアラブの盟主を気取っていた国家さえもその政権が倒され反イスラエル・反欧米という民衆の意思が国家の意思としてより鮮明に打ち出されてくる体勢ができる情勢になるからだ。

 このブログでも、さまざまな工作を通じてことを成し遂げようと画策する国際金融資本勢力とそれに繋がる者たちの思惑は、次々と暴露され、破綻し、どうもなぜかうまくいかない、という結果になってくると指摘した(1月12日号、2010年10月14日号など)ように、「完全なる断絶」を進めようとするイスラエルの意図は、道半ばで挫折し、今や、逆の意味での「完全なる断絶」が進められている。

 このような歴史の流れを見て、賢いものは悟らなければならないだろう。賢くなければ、その結果は推して知るべしである。


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●エジプト・トルコイスラエル:「完全な断絶」
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=23361
【2月24日 by Eric Walberg】

 オスマン・トルコの覇権を受け継いだのは、遠いアメリカから支援されているイスラエルではなく、トルコとエジプトのあるレベルでの協調関係であった・・・

 エジプト革命は国内問題、つまりパンとバター、腐敗、圧政、などの問題であるが、その直接の影響は、国際的である。エジプトがこの中東で大きな影響力を示しだしたのはそれほど昔のことではない。22カ国で構成されるアラブ連盟の内少なくとも13カ国はその影響を受けている:アルジェリア、バーレーン、ジブチ、エジプト、イラク、リビア、モーリタニア、スーダン、シリア、チュニジア、イエメンだ。

 しかしイスラエルでの影響も同じく大きなものだった。イスラエルはエジプトとトルコのような民主的ではっきりとした隣人をかつて持ったことはなかった。

 アメリカがNATO(1949年4月設立)の総仕上げをしている時、トルコがイスラム国家として初めて1949年3月にイスラエルを公認した(イランは翌年公認)。自国の軍が注意深く見詰める中、トルコとイスラエルは外交、経済、軍事分野での密接な関係を冷戦時代を通して保持し続けた。

 最初のトラブルは1987年にパレスチナ人に対する「イスラエルの弾圧」に対し、トルコが非難した時である。しかし、強い批判的声明が出されだしたのは、公正発展党が2002年に与党となった後である。2004年トルコは、イスラエルによるハマスのシェイフ・アハメド・ヤシンの暗殺を「テロリストの行為」として、またイスラエルのガザでのやり方に対し、「国家主導のテロ」と非難した。

サウジ王国の石油からの収入はアメリカのドルに全面的に依存しているのだから、アメリカ・イスラエルの覇権に対しサウジアラビアが同意したことは理解できる。アメリカのヘンリー・キッシンジャー国務長官(当時)がビジネス・ウィーク誌に語ったように、1973年にエジプトがイスラエルと戦争している時、サウジがエジプトを支援するために対米石油輸出禁止措置を取った後、アメリカに「協力しなければ政治的不安定をもたらしたり、安全を脅かすような大規模な政治的戦争をサウジアラビアやイランのような国々に対し行う」ことになるような姿勢はとられなくなった。

 彼の言葉は、根拠がないわけではなかった。エジプト人とパレスチナ人を支援するためにリスクを負ったファイサル国王は、その後暫くして暗殺されてしまった。そして彼のアメリカに対する反逆の行為はサウジによってなされた最後の反逆になった。しかしながら、エジプトは、イスラエルとの和平へと進んだ。トルコのイスラエルに対する反発が強くなってからでさえ、イスラエルは、敵との間の冷たい平和ではあるが、ムバラク大統領との関係を歓迎していた。

 明らかに敵である。過去30年間、正式の外交関係とエジプトとイスラエルの指導者達の握手の写真があるにもかかわらず、2006年のエジプト政府による世論調査では、エジプト人の92%はイスラエルを敵と見ていることが分かった。ムバラクは恐らく、イスラエルと良好な関係を維持することに不快さを感じていたのだが、アメリカからの2番目に大きな援助(イスラエルが1番目)を貰うことで彼はアメリカの意思に従ったのだ。

 今のイスラエルの軍事的戦略は、1980年代初期、軍事的脅威としてのエジプトを除去してから明確になった。アリエル・シャロンは1981年、レバノン侵攻の少し前に、イスラエルは隣国との平和を考慮するのではなく、自らの影響力を、「トルコ、イラン、パキスタンなど、更にペルシャ湾とアフリカ、とりわけ北・中央アフリカ」を含む地域全体に拡大することを求めることを公表した。イスラエルが地域大国になるというこの考え方は、シャロン・ドクトリンとして知られるようになった。

 シャロンの1982年のレバノン侵攻は、直接侵略の伝統的帝国主義的戦略に倣ったもので、この場合では地域のエリート集団であるキリスト教徒のグループと共闘した。しかし、既にこの力の政策は見直されようとしている。レバノンではこれはイスラエルのためにならなかった。このようなグループがイスラエルに盾突いたり、転覆させられるリスクが常に存在している。

 イスラエルをこの地域の覇権国にするという更に急進的な新イスラエルのゲームプランは、オデド・イェオンの「1980年代のイスラエルの戦略」である。イェオンは弱く依存的で、ある程度の民主主義的装いを持った小国群を生み出すため、「分断し支配する」彼の提案のため「不和の種まき男」というニックネームを持っていた。これは丁度アメリカの中央アメリカにおける戦略に似たものである。このような小国は互いに戦い、もし事態が悪化してポピュリストのリーダーが出てきても、簡単に妨害できる-サルバドール・オプションである。ヒズボラの指導者であるハッサン・ハスララは、イェオンの理論を基礎とするこのイスラエルの政策を評して2007年に、「民族と宗派によって分断された小国家群をこの地域に生み出そうとするものであり、それが新しい中東というものなのだ」と述べている。

 イェオンは、オスマントルコのシステムをモデルとして利用している。そこでは、細分化された多様な宗教的共同体をモスレムのシャリア、キリスト教のカノン、ユダヤ教のハラカを使って裁判所が統治するものだ。レバノンは、スンニー派、アラウィ派、キリスト教徒、ドゥルーズ教徒に分けられる。イラクはスンニー派、クルド人、シーア派に分けられた。サウジアラビアとエジプトは、宗派ごとに分けられるであろう。イスラエルは議論の余地のない主人となるだろう。

「本当の共生と平和は、アラブ人たちが、ヨルダンと地中海の間をユダヤ人が統治する以外には彼らが生存したり安全であることはない、ということを理解する時にのみ達成できるのだ」
 イェオンは第二次世界大戦後イギリスによって設定された現在の中東国家は、不安定で、従って簡単に反発し合う、多くの少数グループによって出来上がっているという事を正しく見ていた。全ての湾岸諸国は「石油しかない含んでいない砂の繊細な家の上に建てられている」のだ。

 1982年、イェオンの戦略に従って、リチャード・パールの1996年の「完全な断絶」が述べている:「イスラエルはトルコとヨルダンと協力してシリアを弱体化し、封じ込め、後退させることで自らの戦略的環境を形作ることができる。このために、サダム・フセインをイラクの権力の座から除去することに勢力を集中することになる。イスラエルの固有の権利として重要な戦略的目標である」

イスラエルのアビ・ディヒター国内治安情報機関長は、2003年のイラク侵略の直後に、「イラクの弱体化と孤立化はエジプトの弱体化と孤立化と同等以上の重要性を持っている。エジプトの弱体化と孤立化は外交的方法で達成されたが、イラクの完全で包括的な孤立化はあらゆる方法でもってなされねばならなかった。イラクは軍事的脅威としてまた統一国家としては消滅した」

 ハアレツの特派員であるアルフ・ベンは、2003年のアメリカによるイラク侵略の前日に、シャロンと彼の仲間達が、「サダム・フセインが倒されることで、アラファト、ハッサン・ナスララ、バシャール・アサド、イランのアヤトラ、そしてムハマール・カダフィさえも含めた、イスラエルのその他の敵国の指導者らにも似た事が起きるドミノ効果を目論んでいる」 アメリカの実行支配を示しアメリカ・ロビーを使うことで、イスラエルはアメリカの中東における計画の中心に自らを保持し続けることになろう。

 イラク侵略は常にイラン侵略のプレリュードであった。イスラエルのロジックは、間違えることは殆どないのだが、以下のような内容だ。今は占領されているイラクは不安定で親イランであるシーア派の多数派が統治を主張しているので、イランは強化されてきていて、この地域に反イスラエル勢力の頭を叩くため、イランに対する同様の戦争計画が必要である。そのイランは今や単にシーア派からの支援のみならず、アメリカ・イスラエルのアラブ世界全体に対するプロジェクトに反対するスンニー派からの支援も受けている。ベン・エリエザーは人々に、「彼らイランとイラクは双子だ」と語った。

 地平線に湧き上がっていたトルコの暗雲が見えてはいたが、2011年1月25日までは、イスラエルの計画は中東の帝国主義的強国として、かつてのオスマントルコの代わりをなすものだった。アラブ国家(イギリスの<分断して支配する>戦略と地方独裁者政策でで出来上がった)は、石油への安全なアクセスを保障するため、分断され弱体化されイスラエルに依存する体制が保持されるはずだった。イスラエル型の平和が地域全体で生じるはずだった。

 しかし、この絡まったクモの巣は解かれてしまったのだ。イスラエルとの平和条約以来のエジプトに対する360億ドルのアメリカの軍事援助やエジプト軍のアメリカ化にも拘わらず、wikileaks-egypt.blogspot.comによれば、アメリカ高官は、将軍達が中央政権の力を更に削ぐための変化と経済改革に従順でないエジプトの後ろ向きの性格」(イスラエルがエジプトの主敵である)に不満を持っていた。

 エジプトのムハマド・タンタウィ国防大臣は、「対外軍事援助(FMF)の使途を変更することに抵抗していた。また軍事的任務を増大する治安問題に向けさせることに障害となった中心人物であった」 エジプトの事実上の国家元首は、エジプト軍を広域NATO軍による非対称的脅威に対する戦争(テロとの戦争)に参戦させるという、新アメリカ・イスラエル戦略に沿った方向を取ること、ならびにイスラエルを地域覇権国として認めることを拒否したから、アメリカによって批判された。

 ムバラクはエジプトの独裁者でシャロンのこの地域に対する戦略に合致していた人物だったが、想定外の方法・・・つまり民衆革命によって彼は追放されてしまった。イェオンの、分断して支配するという戦略は、エジプトでは、イスラム教徒を扇動してコプト教徒に向かわせる、というものだが、そこでおきた民衆革命によって頓挫した。この民衆革命の一つのシンボルは新月と十字架なのだ。

 確かに過去において「完全な断絶」は存在したが、パールが予想したようなものではなかった。彼の企図は、以下のように書き換えられる:エジプトとトルコがシリアとレバノンと協調しながら戦略的環境を整え、イスラエルを弱体化し、封じ込め、後退させる、と。

 ディヒターの傲慢性がどう事態を見ているのか、この時点でイラクの将来がどうなるか予見することは不可能だが、彼が考えているようにはならないだろう。そしてイランはほっと息をついているところだろう。

 1年半前、イスラエルの潜水艦がスエズ運河を通って紅海に出て演習をした。これはイランに対する抑止のメッセージを送ることで、イスラエルとエジプトとの協力関係を示していた。ムバラクが追放されてたった一週間後に、スエズ運河は抑止のメッセージを送るために使用されたが、今回はシリアの港に向かうイランの軍艦が通過したことで、イスラエルに対する抑止のメッセージとなった。

 アラブ世界で今起きている騒乱はイェオンが願った宗派間の闘争というものはない。バーレーンでのシーア派の騒乱でさえ、シーア派とスンニー派の対立以上に、イギリスがもともと押し付けた圧政的な新植民地主義君主体制に対するものである。

 イスラエルのリーバーマン外相はエジプトのモスレム同胞団に対し、「平和条約を危うくする」と恐れを表明した。この条約に対しては85%のイスラエル人が歓迎している。しかし、彼は恐れる必要はない。エジプト人がイスラエルを好きでないとしても、自分より明らかに強く残忍な隣人に戦争を仕掛けようとは誰も考えてはいないからだ。

 リクード党の者たちが一番困ったことは、新エジプトと新トルコとの協調関係が、イスラエルを中東の地域的帝国として設定せんとするシャロン・イェオン戦略をお蔵行きにするだろう、ということだ。イスラエルは中東国家の国際礼譲にガキ大将としてではなく、責任あるパートナーとして参加せざるを得なくなるであろう。

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2月14日のイランのデモ・車が行き交っている

◆2月27日

 チュニジアやエジプトの革命は、国家元首とその一派が何十年にもわたって民衆を搾取し、欧米のグローバリズムの手先となって、売国行為をしてきたことに、我慢ならなくなった人々が命をかけて立ち上がって成し遂げている革命である。

 このうねりを欧米グローバリズム勢力は、彼らの背後にいるユダヤ・イスラエル勢力の思惑を受けて、そのユダヤ・イスラエル勢力の天敵である、イランでもあわよくば起こそうと画策したが、イランではその革命の条件が整っていないから不発に終わっている。

 彼らは中東で起きている、この革命の真の意義を理解していないわけではなかろうが、それでも民衆を操れば、どさくさにまぎれてイランなどでも同様の革命を起こせると踏んでいるふしがある。愚かといえば、愚かなことである。

 勿論、政府に対する不満など、どの国にもある。イランやシリアにないはずはない。問題は、程度の差でもある。しかし根本的に違う点がある。イランやシリアでは欧米グローバリズムの弊害は制限されたものだということだ。彼らは反欧米であったが故、つまり欧米の資本がさほど入っていないがため、このアラブの革命時に騒乱が制限されたもので収まっているのだ。

 これから、欧米社会が好きなようにしてきた親欧米アラブ・イスラム国家では、革命騒ぎが強化され先鋭化し、実現していくであろうが、欧米グローバリズムの悪徳から離れているイランやシリアではその革命の影響は、親欧米アラブ国家に比べてずっと少ないことを知ることだろう。

 既に何回も指摘したように、中東は反欧米・反ユダヤ・反イスラエルの基調でまとまっていく趨勢にある。そしてこれは誰も止めることはできない。その流れはこれから2012年、13年と継続していくことだろう。

 そしてやがては、アメリカのウィスコンシン州などで起きているように、経済問題がにっちもさっちも行かなくなったアメリカ各州にも波及していくことになる。

 その動きは中国も同様である。極端な格差社会の中国で、これから天災が火に油を注ぐ格好で不満分子の騒乱への欲求を強化する。そしてそれは最終的には、民主化革命へと結実していくことだろう。

 現在の中東から始まったうねりは、人類歴史的なうねりの現れであり、今まで隠されてきた一切の悪事が表面化し、今までの本当の隠れた収奪者が炙り出されてきて、最終的に収奪されていく道程にある。従って、そのうねりは誰にも止めることはできないのだ。これを本当の収奪者らは理解すべきであろう。


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●革命というカードはイランには無い
http://www.atimes.com/atimes/Middle_East/MB26Ak01.html
【2月26日 By Ali Reza Eshraghi】

 レーニンは、革命の症状を診断する定式を持っていた。「底辺にいる者たちは革命に参加せず、トップにいる者たちも参加できない」 彼は革命には大衆の参加が必要で、勇気と決意、それに政治的要素と言っている。しかしこれら三つの条件はイランに存在していないのだ。

 2月14日、テヘランの大通りに繰り出したデモ隊と2月20日の少数の者たちは勇気だけはあった。2009年にイラン政権が大衆の反乱に適用した弾圧の例があるにも係わらず、彼らは何がやってこようとやってやるという気概があった。また彼らは非常に急進的なスローガンを叫んだ。それは2009年では叫ばれなかったもので、最高指導者であるアリ・ハメネイ師を攻撃する内容だった。

 彼らはまた、スローガンを叫ぶ時、静かにする時、危険からどう逃げるか、個人のアイデンティティーを特定されることをいかに避けるか、をわきまえることで分別を示した。

 二つのデモの間にははっきりとした違いが存在している。2月14日、政権は暴力的弾圧をする姿勢は示さなかった。2人の死亡が報道されたが、それがどのようにして生じたかは未だにはっきりとはしていない。

 政権が暴力的弾圧に消極的であった理由の一つはトルコのアブドゥラ・ギュル大統領がテヘランを訪問していたからかもしれない。しかし一方では、イラン政府は抗議運動を取り締まる自信があったから訪問は延期にならなかったのだ。

 弾圧を自粛したもっと重要な理由は、政権は1年以上前に生じた騒乱以後、反対派の現状を推し量る狙いがあったからかもしれないということだ。バシジ民兵の一人によれば、警察はある一定の数の者たちが決められた場所に集まるまで出動しないで待機していたという。

 今月2度目の抗議運動があった2月20日には、デモ隊の人数より多い武装警官が弾圧の姿勢で現れた。これで多くの人々は通りに出てくることをためらった。政権は威圧すれば統制できることを示した。

 不思議だが、反対派の中には、政府側が使用した方法を適用する者たちがいた。彼らは、威圧的な治安部隊のニュースを調べて、BBCペルシャ・サービスのようなメディアのニュースが放映されることを阻止しようとしていたのだ。より多くの人々が大通りに出てくるようにという素朴な希望からそうしたのだ。

 不足したのは、勇気や決意だけではなかった。多くのイラン人は反対派の抗議運動に参加する動機に欠けるのである。変化に対する意思はようするに、それほど強くはない、ということなのだ。

 反対派と政権側の力が路上でぶつかる時、本当の革命の様相になる。無党派はそこにはいない。

 2月14日の抗議運動はテヘランのいくつかの通りを塞いだが、市の機能をマヒさせはしなかった。多くのビデオ映像は、人々が歩いたり車を運転したりして通常の仕事を続けている様を示していた。デモが行われている場所であっても店や映画館は開いたままであった。目撃者らは、デモの有様を見たいという観光客や群集を掻き分けて仕事をする人々にオートバイの便が提供されたと言っている。

 政府に対する不満を訴える人々は広範囲に存在する一方、行動に移すまで不満が募っているわけではないのだ。グリーン・ムーブメントは、「われらの勢力は数え切れない」と唱えているよりかずっと数は少ないままである。彼らの支持基盤は、主に中流階級に限られる。

 最近の燃料と食糧価格の高騰を含む経済的プレッシャーにも拘わらず、テヘラン南部の貧民地域住民は通りに出てデモに参加するまでの意欲に欠けていた。

 2009年の抗議運動後の演説で、革命防衛隊司令官だったサイード・ガセミは、恐れねばならないのは、テヘラン南部の貧民が怒りに燃えて通りに出て来て、最高指導者への支持を取りやめるような時だ、と述べている。

 経済的問題は抗議運動する者たちの要求する内容には取り上げられていない。そして彼らが時たま、パンの値段に不満を言ってそれを取り上げる時は、それを言う者たちはパンをそれでも十分に買うことのできる者たちなので、空しく聞こえてしまう。

 反対運動に対して労働者からの支持が無いということは、最初の2月の抗議運動の時、アバダン精油所での動きに象徴的に現れていた。反対派のウェブサイトでは、1979年のイスラム革命時にあったような石油工業ストライキにならったストライキを実行しようとしていた。実際には、たった50人ほどの労働者が参加しただけのそのデモは不払い賃金に関する要求がなされただけで、グリーン・ムーブメントを支持するものではなかったのだ。

 反対派はまた北テヘランの富裕層を巻き込むこともなかった。騒乱の間、マレーシア、トルコ、タイ、ドバイなどへ休暇で行く人々が一杯いた。

 これら全て、グリーン・ムーブメントは支配的勢力になる条件をまだ作っていないことを示している。

 この運動は、イランのエスタブリッシュメントのかつての友人らを失ってさえいる。とりわけアハマディネジャド大統領に反発する者たちが去っている。その去った者の中には、アヤトラ・アッバス・ヴァエズ・タバシ師がいる。彼はマスハドのイマム・レザ寺院の管理人で農場、不動産、工場などの資産は2009年にアハマディネジャドと大統領職を争った時、ミール・ホセイン・ムサビを資金的・道徳的に支援することになった。

 しかしながら、現在は彼は2月14日の抗議運動参加者たちを「治安妨害の扇動者らであり疑いなく神の裁きを受けるに値する者たち」と評している。

 最高指導者の検査官長であり、保守派の聖職者の中で最も影響力のある指導者の中の一人であるアリ・アクバール・ナテグ・ヌリはもう一人のムサビの支持者だった。彼は暫く静かにしていたが、2月14日のデモの後、沈黙を破って、ムサビと彼の同盟者であるメフディ・カルビには政治的センスと愛国心が欠けており、両者とも裁判に掛けられるべきだ、と語った。

 「我々の敵は、我々内部で意見が異なることはあるが、我々全員はこの政権を守護している、ということを知る必要がある」と彼は語ったのだ。

 グリーン・ムーブメントの最大の頭痛の種は、その目的が不明確だという点だ。また特別の社会的グループのというよりかは全ての人々の解放を目指している、ということを人々に納得してもらえるような言い方で説明されていないのだ。

 エジプト人とチュニジア人のデモ隊は、政権の終焉、というはっきりとした目的を持っていた。

 2009年の大統領選挙後にグリーン・ムーブメントが形を整えた時、そのメッセージは直裁的で、投票は不正に操作され、選挙民は騙された、というものだった。これで300万人が通りに出てデモに参加したのだ。

 しかし今はどうだろうか? アハマディネジャドを取り除くことを願っているのか、そして新しい選挙をやりたいのか? もしそうならば、彼らの支持者らが叫ぶスローガンにはその点が明瞭に示されていない。彼らは政府のイスラム的システムを解体したいのだろうか、あるいは、ハメネイ師を除きたいだけなのか? 彼らは憲法改正をして最高指導者の地位を廃棄したいのだろうか、あるいは、単に現在の枠組み内でのよりましな政府を求めているのか?

 グリーン・ムーブメント指導者らは、こういった曖昧な点を明瞭化するに役立たずなままであり、更なるイラン人をその大義の下に集めるよう明瞭なメッセージを発信する点で不足している。メッセージは混乱したままだ。2月14日デモはエジプト人とチュニジア人との連帯を示すものだったはずだが、聞こえてきた主要なスローガンは最高指導者に対する反対の声であった。

 反対派の者たちは、最近のデモはグリーン・ムーブメントがまだ生きていることを示すことができたから勝利だったと言っている。 しかし、彼らは示したのか? もしも彼らの主要な狙いが、彼らがまだ活動しているということを政府に示すことだったとすれば、通りに出た抗議者たちは、不幸にも風船とジュースの代わりに警棒と催涙ガスで祝われたカーニバルの参加者のようなことになってしまう。
 イランの敵の源を探し回っても、納得できる回答を与える者はいない。反対派の活動は、政権が行うことに反対するための反対運動ということなのだ。

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島国バーレーン

◆2月25日

 バーレーンのアメリカ大使はユダヤ系アメリカ人のジョセフ・アダム・イレリである。これを見ても、ユダヤ・イスラエル勢力の意図が分かろうというものである。対岸にはイスラエルの天敵のイランが存在し、バーレーンはアメリカ第五艦隊の基地になっている。

 アメリカがユダヤ・イスラエル勢力に使役させられている構図がこうも象徴的に示されているところも珍しい。アメリカの若い兵士らは、ユダヤ・イスラエルの天敵であるイランと戦わせられる為に、つまりユダヤ・イスラエルの利益のために命をかけさせられているのである。

 そのバーレーンでは、民衆の反乱がエジプト方式を採用し、意気軒昂である。著者が書いているように、このアラブの反乱は自国の為政者とそれを援助してきた欧米の、またそこに寄生しているユダヤ系の仕掛けるグローバリズムに対する反乱である。

 「最後の鐘が鳴る・・・収奪者が収奪される・・・」

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●アメリカ支援のバーレーン政権に最後の鐘が鳴っている
http://www.globalresearch.ca/index.php?context=va&aid=23348
【2月23日 by Finian Cunningham】

 アメリカが支援する支配エリート達に対するバーレーンでの反乱は、危機的な大規模な様相を示し出した。このペルシャ湾の島国では22日、最大のデモ隊が繰り出した。20万人に上る大衆が首都マナマに通じる主要幹線道路に繰り出し、一斉に政権の追放を叫んだのだ。

 彼らの抗議活動は、真珠広場を中心としてゆるぎないものになった。そこではテントが張られ数千人が夜を徹して活動を継続できるよう環境が整えられてきている。エジプトのタハリール広場の見事な模倣の中で、バーレーンのデモ隊は自分達の要求が受け入れられるまでは動かないと言っている。

 男も女も子供達も恐れていない。7人が殺され、数百人が負傷した先週の国家による残虐な弾圧も反乱を鎮めることができなかった。今や人々は更に激昂し臍(ほぞ)を固めてアル・カリファ政権の打倒を要求している。

 人々は自分達の叫びが、数十年間願ってきたこと、ペテン師の政権が追放されること、自分達の生活と島から追放する叫びとなっていることを知った。

 バーレーン人は政権の起源とその性質に関する長い記憶を持っている。抗議する人々がアル・カリファの略奪の統治に飽き飽きしていたことを人は何回も聞かされるであろう。

 十代の若者達の掲げる小さなプラカードには、「お客の訪問は終わった」とアラビア語で書かれていた。

 100万人の人口の内60万人を占める土着のバーレーン人の多くの者たちの起源は「預言者イサ(=イエス・キリスト)」の」時代よりもっと前に遡る。

 支配者であるアル・カリファ一族のことを彼らは、バーレーン人の寛容さを過去200年間悪用してきた何かペテン師のような者たちと見ている。サウジアラビアの真ん中から出てきた、背教者であり海賊として基地を求めてペルシャ湾を徘徊した元ベドウィン部族に起源を持つアル・カリファ一族について語る時には、これは決して単純化し過ぎた話ではない。

 後にカタールとなるズバラから追放された後、アル・カリファ一族の者たちはバハレーンに落ちついた。イギリス帝国の援助で彼らはこの島の統治者となり、イギリスはその「保護」を請け負った。バーレーンは古代の貿易の中継地で、コスモポリタン的な土着の人々は礼儀正しい人々だった。彼らは漁師、農民、船大工あるいは職人だったりした。彼らは豊富な帯水層を含む島の豊かな資源を利用してそれなりの生活を享受していた。

 彼らの新しい主人とその彼らの貪欲な生活様式、それに加えて決定的なイギリスの物質的政治的な支援で、土着の人々の自然なもてなしを利用して築いた王国は島を搾取の地にした。現首相であり王の叔父でもある人物は1971年にイギリスから独立して以来40年間その地位にいる。首相はマナマの金融地区に林立した多くの超高層ビルを所有している。その中には金融湾にあるツイン・タワーも含まれる。

 国際資本を招来せしめ自分達の利益を上げるためにマナマの金融地区を創ろうとして、バーレーンの現在の土地が埋め立てプロジェクトのために広大な農地や海岸、暮らしが破壊されたことを、昨夜のデモ隊の中の45歳ほどのいささかだらしない格好の男性が語っていた。「自分が子供だった時には、家族はここで漁をしていたものだ。いつも充分に食べる分を得る事ができた。市場で魚を売ってもいた。今じゃ、仕事さえない」。彼はビルの立っている地面を指して、「ここは海だった。ここに我々は住んでいたのだ」

 同じ話が多くのバーレーン人によって語られている。漁、真珠とり、農業、後期には石油などの資源が50人から100人の支配エリート達を富ます為に枯渇させられたのだ。

 しかし何十年もの開発の後、バーレーン人はこの自分達から盗み、拘留し、拷問し、殺害し、自分達の海岸と資源を盗む「海賊達」に対する堪忍袋の緒がどうも切れたようだ。これら一切のことを援助してきたイギリスと、後になって第五艦隊をここに停泊させるアメリカ政府に対しても同様の思いである。

 最後の一線は、先週ただ自分の国における公正な分け前を要求しただけの無防備の民衆に対し、政権側が銃撃を命令した時に越えてしまった。

 流血は決意を固めた更なる民衆がデモに参加する事態を招いただけだった。

 ある男性はプラカードにこう書いていた:人がいくばくかのパンを要求すると叩かれるので、彼は更にパンとバターを要求するだろう;彼が再び叩かれると、彼は更に大胆にパンとバターとジャムを要求するだろう・・・これがここで何十年、何世紀、行われていたのだ」

 デモ隊の中には子供と一緒の若い母親達がいた。これらの母親達は全員、これらの子供達の未来のためにデモに参加したと語っていた。

 「ここでは私達には生活がないのです。私達は自分達と子供達のために生活を守りたいのです。私達は自由を願っています」

 これらがアメリカやヨーロッパも含むグローバル・キャピタリズムの下で奴隷化させられた国々で起きた客観的で絶望的な状況だ。大衆が自分達と子供達の生活がエリート的寄生虫主義(資本主義)のシステムによって否定されてきたことを理解し始めると、アメリカのウィスコンシン州で見るような、このシステムに対抗するために必要な戦闘的不寛容さに目覚めるだろう。

 非常に基本的な物質的利益の闘争に帰着する:我々のエリート達の不当な冨は私と我々の子供達が食べていくことを阻止している。これがバーレーンとこの中東地域に起きている反乱の背後にある巨大な力強い動因である。歴史を作る動因であり、最終的には変化が起きるのだ。現代歴史が階級闘争から起きているというカール・マルクスが正しいと言えるかもしれない。多くの普通の人々はそのように見ないかもしれないが、突き詰めてみればそういうことだ。

 しかし、ただエリート達に対抗するために立ち上がり彼らを追放するだけでは十分ではない。彼らのシステムの代わりに何を持ってくるのかを知らねばならない。我々は分析し、何を欲しているのかを明確にできねばならない。そうでないと、空白状態ができてエリート達は
不満を抱いている人々を変節させ分散させ気持ちを紛らわしてしまうだろう。アメリカ、イギリス、フランスなどの遅ればせの祝福を受けての、バーレーンその他どこでもなされているエリート達による「国民的対話」の呼びかけは、間違いなく政権をもっとましなものにし、引き締めようとする試みの一つである。

 何らかの代替案が考えられねば、この動きが分散され社会主義的解決のための機会が失われる危険が存在する。バーレーンの抗議者たちの中で要求されているものは、今のところは結構な価値観に関する内容となっている:民主主義、自由、人権、平等などだ。しかし、彼らの望んでいることや必要を実現するためには時間が組織化された社会的、政治的、経済的計画を明確にする鍵となる。

 バーレーンでは、先週の7人の死についてある犠牲者の恐ろしい写真がある。22日の火曜日、国家がデモを弾圧するため最悪の動きをした際に、その犠牲者は真珠広場で眠っているところを至近距離から撃たれているのだ。その写真は多くのデモ隊員らによって掲げられたポスターになっている。その男の頭蓋骨は吹き飛ばされている。それはグロテスクで人々もそれについて残忍であるわけではない。その写真は単に欧米の資本家のご主人達とこの政権の凶悪さを示すために掲げているだけだ。それとこの政権が今まで人々を排除してきた内容であり、排除するために準備していることを示すものである。

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スエズ運河を通過するイランの軍艦

◆2月23日

 エジプトに革命が起き、親イスラエル政権であったムバラク政権が倒された為、イランの軍艦がスエズ運河をイランのイスラム革命以来始めて通過した。

 これが今アラブ・イスラム諸国で起きている革命の結果としての象徴的な出来事になる。ムバラク政権が健在ならば、こうはならなかったであろう。つまり、イスラエルに不利になる環境が生まれつつある、という現実だ。このイランの艦船がシリアやトルコと連携し、地中海側からイスラエルを牽制する動きを取る可能性が出てきたからだ。

 これから、バハレーン、クウェートあるいはサウジアラビアなど親欧米アラブ諸国で動乱が勃発あるいは先鋭化すれば中東全体が反グローバリズムの大きな枠組みの中で、反欧米・反イスラエルの基調でまとまっていくようになる。

 そうすれば、騒乱後の中東では、イスラエルのパレスチナ人に対する対応に非難が集中するようになる。またイスラエル内でさえ、「民主化」運動が活発になり、今までのイスラエル版カースト制度が批判されるようになる。

 イスラエル内では、パレスチナ人・イスラム教徒が最下層であり、次にパレスチナ人のキリスト教徒、そしてセファラディー・ユダヤ人(エチオピアなどからのユダヤ人も含め)、一番上にアシュケナジー・ユダヤ人が君臨している。

 アラブ・イスラム世界で始まった「民主化」の動きの影響のため、このイスラエルの「カースト制度」を取っ払え、という動きがイスラエル内で強化されるかもしれない。

 いずれにしても、イスラエル・ユダヤの今までの世界支配構造に風穴が開き始めるのもそう遠い話ではなくなることだろう。


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●イラン軍艦:スエズ運河通過
http://www.foxnews.com/world/2011/02/22/iranian-warships-complete-suez-canal-transit/
【2月22日 Fox News】

 二隻のイラン海軍船がシリアに向かう途中、スエズ運河を22日通過した。この戦略的水路をイランが軍艦を送るのは30年間で始めてのこととなる。

 運河の担当官は、この船舶はフリゲート艦と補給船で、地中海側に現地時間で午後4時ころに入ったと語った。

 イスラエルはこの通過を挑発と捉えている。イスラエル高官は22日コメントを拒否したが、今週初め、ネタニヤフ首相はこのイランの動きを「深刻に」捉えていると語った。

 運河は紅海と地中海を繋いでおり、船舶がアフリカを迂回することを避けることができる。イランの軍艦はイランの親しい同盟国でありイスラエルの天敵であるシリアでの訓練のために現地に向かっている。駐シリア・イラン大使館の高官は、イランの海軍艦船がシリアのドックに入ることは始めてのことになる、と語った。

 この艦船は通過のために約30万ドルの料金を支払ったという。この高官らは皆匿名で語ったが、それはこの問題で語ることは許されていないからだ。

 スエズ運河通過の許可要請はエジプトにとっては、新しい統治者である軍が、とりわけ長年の指導者であったホスニ・ムバラクが追放された革命後の治安回復を含めた国内問題に全面的に掛かりっきりになっているという困難な時期になされた。

 軍の統治者は艦船の通過を許可する以外の選択肢は持っていなかったようだ。それは、国際協定によれば運河の通行は「商用・軍用のいかなる艦船」に対しても許可されねばならないとあるからだ。エジプトはまた運河を通過する艦船の捜査をすることはできない。

 イランの軍艦はイスラム革命の起きた1979年以来スエズ運河は通行してなかった。

 エジプト・イラン間の関係はイスラム革命とイスラエル・エジプト平和条約後、破綻した。その後関係は両国の関係者らを通して少し改善された。

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